LOGIN午前零時十二分。
廃校になって二十三年が過ぎた木造校舎のスピーカーから、女の声が流れた。
『四年二組のみなさん、教室へ戻ってください』
誰もいないはずの二階で、何かが走った。
古い床板を、小さな足が何人分も続けて踏んでいく。
ダッ、ダッ、ダッ、と廊下の端から端まで駆け抜ける音がしたかと思うと、今度は階段を下りる音へ変わった。
「カメラ回ってる?」
「回ってます!」
「音声、今の入った?」
「入ってます。たぶん全部です!」
撮影スタッフの声が飛び交った。
テレビ局の若いディレクター・坂口亮平は、興奮を隠しきれない様子でモニターへ顔を寄せていた。
「すごいな……。こんなにはっきり入るとは思わなかった」
その隣で、久世環だけが険しい顔をしていた。
「坂口さん」
「はい?」
「撮影を止めてください」
「え?」
「今すぐです」
坂口の顔から笑みが消えた。
「いや、でも久世さん、まだ始まったばかりですし、今の音だけでも相当――」
「止めてください」
環は声を荒らげなかった。
それなのに、周囲にいたスタッフが一斉に黙った。
「この学校にいる方は、見世物になりたくて声を出しているんじゃありません」
「でも、番組として来ている以上、記録は必要でしょう。久世さんにもその条件で出演していただいていますよね」
「記録と、面白がって追いかけることは違います」
「面白がっているわけじゃありませんよ」
「では、二階へ走っていく必要はありませんね」
坂口が口を閉じた。
つい数秒前まで、ADの一人に「足音がした方向へ行け」と指示していたのを、環は聞いていた。
佐伯蓮がカメラの横から顔を出した。
「坂口さん、先生がここまで言うときは、本当にやめたほうがいいです」
「佐伯さんまで何ですか。あなた、昔はこういう番組を作る側だったでしょう」
「だから言ってるんですよ。数字を欲しがる人間がどこで判断を間違えるか、俺はよく知ってますから」
坂口は不満そうだったが、最終的には手を上げた。
「一度止めます。全員、機材そのままで待機」
撮影用ライトが一つずつ落とされる。
暗さが戻った。
その瞬間だった。
二階のどこかで、椅子を引く音がした。
環は顔を上げた。
今度の音を聞いた者は、スタッフの中では環と蓮だけだった。
「先生」
「ええ」
二人は同時に、二階の同じ方向を見た。
旧四年二組の教室だった。
◇
三日前。
久世相談室へ届いた地方テレビ局の企画書には、東北地方某県にある廃校について、かなり大げさな文句が並んでいた。
校舎は山と田畑に囲まれた小さな集落の外れにあり、昭和の終わりごろまでは百人近い児童が通っていたが、過疎化によって児童数が減少し、二十三年前に閉校した。
そこまでは、どこの地方にもありそうな話だった。
奇妙なのは閉校後である。
夜になると校内放送が流れる。
誰もいない二階の廊下を子供たちが走る。
四年二組の教室だけ、窓の内側に手形が残る。
そして午前零時を過ぎると、女の声で、
『四年二組のみなさん、教室へ戻ってください』
という放送が流れる。
現在は私有地となっているため無断での立ち入りは禁止されているが、インターネット上では以前から「東北最恐の廃校」などと呼ばれ、肝試し目的で侵入する若者が後を絶たないという。
実名を出さないこと。
正確な所在地も伏せること。
地元住民への迷惑となるような案内映像を撮らないこと。
環が出演を受ける条件として最初に挙げたのは、その三つだった。
「久世さん、そこまで隠したら心霊スポットとしての引きが弱くなりませんかね」
東京から同行する坂口が、打ち合わせの席で言った。
「弱くていいです」
「番組としては困るんですが」
「困るなら、私は出ません」
環は麦茶を一口飲んだ。
「地元の方は普通に生活しています。テレビで場所を細かく紹介して、翌週から若い人が夜中に大勢押しかけたら、誰が責任を取るんですか」
「もちろん立ち入り禁止の注意は入れますよ」
「注意書きを出せば、行く人が一人もいなくなるなら苦労しません」
坂口は言葉を失った。
蓮が隣から小声で言った。
「この人、その辺は絶対に折れませんよ」
「佐伯さん、私が面倒な出演者みたいに言わないでください」
「実際、制作側から見ると結構面倒です」
「帰りますよ」
「褒めてますって」
結局、テレビ局側が条件を受け入れた。
環にとっても、テレビ出演は無用な仕事ではない。
番組の出演料や監修料があるからこそ、個人の相談者から高額な料金を取らずに済んでいる。
ただし、そのことと番組のために恐怖を誇張することは別だった。
◇
現地へ到着した日の午後、環たちは最初に元校長と会った。
七十四歳になる小野寺孝一は、閉校前の最後の校長ではなく、そのさらに前に教頭を務めていた人物だった。
集落の公民館で待っていた小野寺は、テレビ局の機材を見るなり露骨に嫌な顔をした。
「私は最初に言っておきますけど、面白おかしくやるなら帰ってください」
坂口の顔が一瞬引きつった。
「もちろん、地元の方への配慮は――」
「前にもそう言った連中がいたんです」
小野寺は遮った。
「十何年か前だったかな。雑誌の取材とか言って来て、『ここで子供が大勢死んだ』『先生が発狂して自殺した』なんて好き勝手に書いた。全部嘘です。この学校で大量死なんか起きてないし、教師が校内で自殺したこともありません」
環が静かに尋ねた。
「では、校内放送については?」
小野寺の表情が変わった。
「……それは、本当に聞いたことがあります」
「いつですか?」
「閉校して五年ほど経ったころです。備品整理のために、町の職員と二人で学校へ入った。夕方には帰るつもりだったんですが、作業が長引いて暗くなってしまって」
小野寺は両手を膝に置いたまま、少し前かがみになった。
「放送設備は電源を切っていたんです。それなのに、校舎中のスピーカーから女の声がした」
「何と言いました?」
小野寺はすぐには答えなかった。
「四年二組のみなさん、教室へ戻ってください」
企画書と同じだった。
「声に聞き覚えは?」
環が尋ねると、小野寺は黙り込んだ。
その沈黙を、坂口は見逃さなかった。
「知ってるんですね?」
「……似ていただけかもしれません」
「誰にですか?」
小野寺はテレビカメラを見た。
「今は撮ってませんよね?」
「回していません」
坂口が答える。
「本当に?」
「ええ」
小野寺はしばらく確認するように蓮のカメラまで見たあと、ようやく言った。
「佐藤佳代子先生という方がいました。四年二組の担任だった」
「その先生が亡くなった?」
「亡くなっています。ただし、学校でじゃありません」
小野寺の声には、長い間説明する機会を失っていた人間特有の疲れがあった。
「四十二年前、この辺りで大きな土砂災害がありました」
◇
当時、数日間にわたって大雨が続いていた。
学校は午後から授業を打ち切り、児童を順次帰宅させることになった。
現在のように一斉配信の連絡手段もなく、保護者が迎えに来られる児童と、自分で帰る児童とで校内は混乱した。
その最中、学校近くの山の斜面が崩れた。
道路が寸断され、数軒の家が被害を受けた。
「子供が亡くなったんですか」
坂口が聞いた。
「学校の児童で亡くなった子はいませんでした」
小野寺は答えた。
「ただ、四年二組の子供が二人、一時行方が分からなくなった」
「二人?」
「兄弟の家へ一緒に帰ろうとして、学校から少し離れたところで足止めされたらしい。結局、近所の農家へ避難していて、翌朝無事が確認されました」
「じゃあ、佳代子先生は?」
「二人がいないと分かって、雨の中を探しに出たんです」
環は何も言わず続きを待った。
「同僚が止めたんですが、聞かなかった。自分のクラスの子だから、と。結局その夜、先生自身が斜面で転倒して大怪我をした。助かったんですが、その後しばらく学校を休みました」
「亡くなったのは?」
「十年以上あとです。病気でした」
蓮が首をかしげた。
「だったら、怪談としてはずいぶん後から作られた話ですね。先生が子供を探して死んだわけでもない」
「そうなんです」
小野寺は苦い顔をした。
「なのにいつからか、『子供を探して土砂に埋まった女教師の霊が学校をさまよっている』なんて話になった」
「佳代子先生自身は、その噂を知っていたんですか?」
環が尋ねた。
「知っていましたよ」
「どう思っていました?」
「怒っていました」
小野寺は初めて少し笑った。
「『私はまだ生きてますよ』ってね」
その場にいた全員が、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
だが環は続けて聞いた。
「佳代子先生は、亡くなるまでこの土地に?」
「ええ。結婚はされませんでした。退職後も近くに住んでいました」
「四年二組の子供たちとは?」
「同窓会に呼ばれたり、年賀状をもらったりしていたと聞いています」
環は考え込んだ。
「小野寺さん。校内放送の声を聞いたのは一度だけですか?」
「私は一度です。ただ、ほかにも聞いた人はいます」
「いつごろから?」
「佳代子先生が亡くなって、一年ほどしてからです」
環の目がわずかに動いた。
「亡くなる前には、一度も?」
「少なくとも、私は聞いていません」
◇
夕方、校舎へ入った。
管理者の許可を取り、地元の担当者立ち会いのもとでの撮影だった。
外から見ると、校舎は思ったほど荒れていなかった。
二階建ての木造建築で、屋根には一部錆が浮き、窓ガラスも何枚か割れている。それでも、無断侵入者が好き勝手に壊した廃墟とは違い、教室の机や黒板はかなり残されていた。
「有名な心霊スポットって聞いてましたけど、思ったより綺麗ですね」
若いADが言う。
小野寺は不機嫌そうに答えた。
「だから来てほしくないんですよ。荒らされたくないから」
環は玄関で靴を履き替えるようスタッフへ言った。
坂口が驚く。
「廃校ですよ?」
「だから何です?」
「いや、もう学校として使ってないでしょう」
「使っていなければ、土足で荒らしていいことにはなりませんよ」
小野寺がわずかに笑った。
「久世さん、テレビで見るより普通のことを言いますな」
「最近よく言われます」
環は苦笑した。
校内を歩き始める。
昇降口。
職員室。
保健室。
一階の教室。
何かはいる。
環には分かっていた。
ただし、強い悪意は感じない。
二階へ上がったところで、空気が変わった。
廊下の奥から、子供たちが話しているような気配がする。
実際に声が聞こえるわけではない。
休み時間の教室へ近づいたときに感じる、たくさんの人がいる場所特有の圧力だけが残っている。
環は廊下を進んだ。
四年二組。
教室の札だけが、今も扉の上に残っていた。
「ここですね」
蓮が言う。
環は扉を開けた。
黒板。
机。
教師用の教卓。
壁には、閉校時に在校していた児童の作品が何枚か残されている。
環が教室へ入る。
五歩ほど進んだところで止まった。
「先生?」
「います」
スタッフの空気が張りつめた。
坂口が反射的にカメラマンへ合図する。
環はそれを見て、少し困った顔をした。
「そんなに身構えなくても大丈夫です」
「誰がいるんですか?」
「子供たちです」
坂口の目が輝く。
「何人?」
「分かりません。でも、亡くなった子だけではないと思います」
「どういう意味です?」
「場所には、人の記憶が残ることがあります」
環は机の間を歩いた。
「学校は特にそうです。何十年もの間、毎日同じ教室へ子供が集まり、笑ったり、泣いたり、喧嘩したりする。すべてを霊と考える必要はありません」
坂口は少し物足りなさそうだった。
「じゃあ、今感じてるのも残留思念みたいなもの?」
「そういう言葉でまとめてしまうのも、私はあまり好きじゃないんですけどね」
環が教卓へ近づいた瞬間、顔色が変わった。
黒板の前。
教師用の机の横に、一人の女性が立っていた。
四十代くらい。
古いデザインのブラウスとスカート。
濡れている。
髪から水が滴っているように見える。
女性は環を見なかった。
教室の机を数えている。
「一、二、三……」
環にしか聞こえない声だった。
「二十七、二十八……」
そこで女が止まる。
「二人、いない」
環の胸が締めつけられた。
「先生」
蓮に呼ばれて、環は我に返った。
「どうしました?」
「……いえ」
環は女の姿を見つめた。
女はもう一度、最初の机から数え始めていた。
◇
夜まで待つ間、環は撮影とは別に調査を続けた。
「当時の四年二組は三十人ですか?」
小野寺に尋ねる。
「そうです。三十人」
「災害の日、行方が分からなくなったのが二人」
「ええ」
「佳代子先生が教室へ戻ったとき、二十八人しかいなかった」
「たぶん、そうだったでしょう」
「その後、二人が無事だと分かったのは翌朝?」
「はい」
環は教室で見た女の様子を説明した。
小野寺は黙って聞いていたが、最後に目頭を押さえた。
「やっぱり佳代子先生なんでしょうか」
「可能性は高いと思います。でも、分からないことがあります」
「何でしょう」
「二人は無事に見つかった。佳代子先生もその事実を知ったはずです。それなのに、どうして今も二十八まで数えているんでしょう」
小野寺は答えられなかった。
そこへ三好真琴から電話が入った。
今回も環から頼まれ、過去の災害記録を調べていた。
『ちょっと面白いというか、気になるものを見つけました』
「何です?」
『当時の地方紙の記事です。児童二人が無事保護された翌日、学校で全校集会が行われる予定だった。でも、道路が寸断されて休校になっています』
「それが何か?」
『佳代子先生、そのまま入院していますよね』
「ええ」
『骨折だけじゃありません。頭も強く打っていたようです。当時の記録だと、一時的に前後の記憶が曖昧になっていたらしい』
環は黙った。
『その後復職していますから、当然二人が無事だったことは知っていたはずです。でも、事故直後の記憶としては――』
「二人が見つかっていないところで、止まっていた」
『可能性はあります』
環は四年二組の教室を見た。
「ありがとうございます」
電話を切った。
蓮が隣で聞いていた。
「つまり、生きてた佳代子先生は二人が助かったことを知っていた。でも、ここに残っているのは災害の日の記憶?」
「そうかもしれません」
「だったら、それを教えれば終わるんじゃないですか?」
「そんなに簡単ならいいんですが」
環は首を振った。
「人間の記憶って、事実を一つ教えれば全部納得できるようにはできていませんよ。まして亡くなった方なら、なおさらです」
◇
深夜零時十二分。
校内放送が流れた。
『四年二組のみなさん、教室へ戻ってください』
撮影を中断させた環は、蓮と小野寺だけを連れて二階へ上がった。
坂口は同行したがったが、環が断った。
「人数が増えるほど騒がしくなります」
「撮影は?」
「蓮さんの記録用カメラ一台だけで十分です」
「番組の素材として使えますか?」
「あとで考えましょう」
「それじゃ困るんですけど」
「坂口さん」
環は振り返った。
「あなたは怖い映像が欲しいんでしょう。でも今、あそこにいる方が本当に四十二年前の佳代子先生なら、その人は今も子供を二人失ったと思っているんです」
坂口は何も言えなかった。
「少なくとも、その確認が終わるまでは、撮影より先にやることがあります」
二階へ上がる。
暗い廊下の先で、四年二組の扉が開いていた。
閉めたはずだった。
環が中へ入る。
教卓の前に、女がいた。
やはり全身が濡れている。
「一、二、三、四……」
机を数えている。
環は邪魔をしなかった。
「二十七、二十八」
女が止まった。
「二人、いない」
環が声をかける。
「佐藤先生」
女が初めて顔を上げた。
目が環を向く。
「二人、いないんです」
「分かっています」
「探さないと」
「二人は見つかりました」
女の表情は変わらなかった。
「探さないと」
「翌朝、農家のお宅で保護されました。二人とも無事でした」
「嘘です」
女の声が強くなった。
窓ガラスが震えた。
廊下のスピーカーから雑音が流れ始める。
蓮がカメラを持つ手に力を入れた。
「久世さん」
小野寺が前へ出た。
「佳代子先生」
女が彼を見る。
生前の知人を認識したのかどうか、環には分からなかった。
「先生。私です。小野寺です」
「……小野寺先生?」
「ええ」
小野寺の声が震えた。
「二人とも助かったんですよ。覚えていませんか。あのあと元気に学校へ戻ってきました」
「戻ってきた?」
「ええ。一人は野球部に入って、もう一人は中学校で吹奏楽をやってた。二人とも高校までちゃんと行きました」
女の顔が揺れた。
「そんな……」
「本当です」
「でも、私……」
「あなたはあの日、怪我をして運ばれたんです」
小野寺は泣いていた。
「何度止めても聞かなかった。『私のクラスの子ですから』って、雨の中へ出ていった。私たちはあなたに腹を立てたんですよ。無茶するなって。でも、二人が助かったと知らせたとき、あなたは病院で泣いてたじゃないですか」
女は教室を見回した。
「三十人……?」
「三十人です」
環が言った。
「先生のクラスは、ちゃんと三十人いました」
その瞬間。
教室の机が、環には別の姿に見えた。
三十人の子供が座っている。
誰も濡れていない。
誰も泣いていない。
四十二年前の教室。
子供たちは教師のほうを向いている。
そして二人の少年が、一番後ろの席から大きく手を振った。
「先生!」
環には声まで聞こえた。
「いるよ!」
佳代子が振り返る。
二人を見た。
環には、その瞬間だけ女の顔がずっと若く見えた。
「いた……」
佳代子が笑う。
「二人とも、いたのね」
机に座っていた子供たちの姿が、一人ずつ薄れていく。
佳代子は教卓へ手を置いた。
「よかった」
それだけ言うと、彼女の姿も消えた。
同時に校内放送の雑音が止まった。
廊下は静かになった。
雨の音すらしない。
小野寺は空になった教室を見ながら、長いこと動かなかった。
「先生はね」
やがて、誰に言うともなく話し始めた。
「怖い人だったんです。宿題を忘れると、ちゃんと叱る。掃除をさぼれば廊下へ呼び出す。今なら保護者から文句が来るかもしれないくらい厳しかった」
環は黙って聞いていた。
「でも、自分のクラスの子の名前だけは絶対に間違えなかった。一人ずつ全部覚えてた。だから、あの日も二十八しかいないことが許せなかったんでしょうな」
「いい先生だったんですね」
「どうでしょう。本人に聞いたら、『普通です』って言うと思います」
小野寺は少し笑った。
「そういう人でした」
◇
翌朝、環はテレビ局のスタッフを集めた。
「昨夜の映像ですが、使うなら条件があります」
坂口が身構える。
「何でしょう」
「佳代子先生の実名は出さない。児童二人の情報も伏せる。災害で子供が死亡したという誤った噂は、番組内できちんと否定する。それから、校舎への無断侵入を煽るような編集はしない」
「かなり縛りますね」
「嫌なら映像を使わなくて結構です」
坂口はしばらく考えた。
「……分かりました」
蓮が意外そうに彼を見る。
「素直ですね」
「俺だって何でも怖ければいいと思ってるわけじゃないですよ」
坂口は少し不機嫌そうに言った。
「昨日、あの放送を聞いてから……その、ちょっと考えました。あれを『呪われた女教師』みたいにするのは、違うなって」
環は笑った。
「それなら十分です」
「ただ、タイトルは『深夜の廃校に響く女教師の声』くらいは勘弁してください」
「その程度なら、小野寺さんと相談してください」
「久世さんじゃないんですか」
「学校は私のものじゃありませんから」
坂口は頭をかいた。
「やりにくいなあ、本当に」
「よく言われます」
帰り際、小野寺が環を呼び止めた。
「久世さん」
「はい」
「ありがとうございました」
「私は少し話しただけです。最後に伝えたのは小野寺さんですよ」
「それでもです」
小野寺は校舎を見上げた。
「これで先生も帰れますかな」
「たぶん」
「たぶんですか」
「霊能力者だからって、何でも分かるわけじゃありません」
「テレビではそんなふうに見えませんな」
「そこだけ上手に編集されるんです」
二人で笑った。
◇
放送から三週間後。
久世相談室へ一通の手紙が届いた。
差出人は六十二歳の男性だった。
かつて四年二組に在籍していた児童の一人だという。
『番組を見ました。あの日、農家の家に避難していた二人のうちの一人です。』
環はそこで読む手を止めた。
蓮が向かいから覗き込む。
「本人?」
「そうみたいです」
続きを読む。
『私はずっと、佐藤先生が自分たちを探して怪我をしたことを気にしていました。大人になってから一度だけ謝りに行ったことがありますが、先生は笑って、「あなたが謝ることじゃない。生きていたならそれでいい」と言ってくれました。』
その後には、教師との思い出が何枚もの便箋に綴られていた。
最後の一文を読んで、環はゆっくり手紙を畳んだ。
「何て?」
蓮が尋ねる。
環は便箋を差し出した。
『もし先生が本当にあの教室にいたのなら、今度こそ出席を三十人まで数えられたのだと思いたいです。』
蓮はしばらく黙っていた。
「こういうの読むと、テレビも悪くないですね」
「珍しいこと言いますね」
「先生こそテレビのギャラで生活してるでしょう」
「生活の話をすると急に現実に戻りますね」
「大事ですよ。次の収録も入ってますから」
「もう?」
「来週です」
「どこですか?」
蓮は机の上へ一枚の企画書を置いた。
環が目を通す。
関東地方某県。
山中を通る旧道。
今では新しいトンネルが開通し、ほとんど使われなくなった旧隧道。
全国の心霊愛好家には非常によく知られている場所だった。
企画書の上部には、大きな文字でこう書かれていた。
『トンネルの中で名前を呼ばれても、絶対に返事をしてはいけない。』
環は眉を寄せた。
「ここは嫌ですね」
「先生でも嫌なんですか」
「嫌ですよ。有名だからではありません」
「じゃあ何で?」
「昔、一度だけ入口まで行ったことがあります」
蓮が初めて表情を変えた。
「テレビで?」
「いいえ。ずっと前です」
「何があったんです?」
環は企画書の写真を見つめた。
黒い坑口の奥へ、昼間なのに光がほとんど届いていない。
「入らなかったんです」
「先生が?」
「ええ」
環は写真から目を離さなかった。
「あのときは、中へ入ってはいけないと思いました」
蓮はしばらく黙ってから、企画書を取り戻そうとした。
「じゃあ断りましょう」
「どうしてです?」
「今の話を聞いて、それでも行くほうがおかしいでしょう」
「でも、もう誰かが入っているんでしょう?」
企画書の最後には、今回の相談内容が記されていた。
三人組の動画配信者が旧トンネルへ侵入し、そのうち一人が内部で自分の名前を呼ばれた。
そして、返事をしてしまった。
それから四日。
青年は眠るたび、同じ夢を見るようになったという。
真っ暗なトンネルの向こうから、誰かが歩いてくる。
まだ顔は見えない。
だが夜を重ねるごとに、足音だけが近づいている。
環は企画書を閉じた。
「断るのは、その人に会ってからにしましょう」
第25話 廃遊園地の観覧車だけが回っている 閉園して十二年。 電気も切られ、制御盤も撤去された観覧車が、午前二時四十分になると動き始める。 一周目、ゴンドラには誰もいない。 二周目、一人。 三周目、二人。 回るたびに子供が一人ずつ増えていき、七周目で観覧車は止まる。 そして三日前から、その七人の中に、現実に行方不明になっている七歳の少女が映っていた。 ◇「最初に申し上げておきますけど、この映像に結衣ちゃんが映っているからといって、亡くなっているとは限りません」 久世環は、相談室のモニターに映った少女から目を離さずに言った。 佐藤結衣。 七歳。 小学一年生。 三日前の午後三時半ごろ、自宅から姿を消した。 母親がほんの二十分ほど買い物へ出た間のことだった。 自宅には小学五年生の兄もいたが、二階の自室でゲームをしており、妹が外へ出たことに気づかなかったという。 防犯カメラには、自宅から一人で歩いていく結衣が映っていた。 その後、住宅地の外れで一度だけ確認されたが、そこから先の足取りは分からない。 警察と消防、地元住民が捜索を続けている。 閉園した遊園地までは、結衣の家から直線距離で三キロ近くある。 七歳の子供が一人で行けない距離ではない。 だが、なぜそこへ向かったのかは不明だった。「でも、この子ですよね」 佐伯蓮が動画を一時停止する。「家族が確認したなら」 三好真琴が頷いた。「母親は『結衣に見える』と言っています。ただ、映像が荒い。警察も本人と断定はしていません」 ゴンドラの窓越し。
第24話 死んだ犬が玄関を引っかく夜 若林家で十六年飼われていた犬のハルは、六月の終わりに死んだ。 雑種の雄だった。 柴犬よりひと回り大きく、茶色の毛に、胸元だけ白い毛が混じっていた。若いころは散歩へ連れていく人間を選ばず、リードさえ見せれば誰にでも尻尾を振ったが、十二歳を過ぎたころから長い散歩を嫌がるようになり、最後の一年は家の周りをゆっくり一周するだけで満足していた。 病気で苦しんだわけではない。 食べる量が減った。 寝ている時間が長くなった。 ある朝、家族が起きたときには、いつも使っていた居間の座布団の上で眠るように死んでいた。 家族四人で見送った。 火葬にも全員で立ち会った。「ちゃんと送れたと思ってたんです」 電話をかけてきた長男の若林颯太は、久世相談室でそう言った。 二十七歳。 都内の食品会社に勤めており、現在も両親と同居している。「ちゃんと、というのは?」 久世環が尋ねる。「もっと何かしてやればよかったとかはありますよ。最後の日、俺が残業で遅くなって、帰ったころにはもう寝てたし。でも家族みんなで火葬して、骨も拾って、写真も飾って」「後悔がないわけではないけれど、見送った実感はあった」「はい」 颯太の母・若林恵子も隣に座っている。 五十五歳。 膝の上には、ハルの写真を入れた小さなアルバム。「だから最初の晩は、空耳だと思ったんです」「玄関を引っかく音ですね」「はい」 恵子が頷く。「ハル、散歩から帰ると前足で玄関のドアを二、三回引っかく癖があったんです。外からカリカリって。私たちが鍵を開けるまで」 環は少し引
第23話 毎晩一段ずつ増える階段 長谷川由紀子の家の階段は、十三段だった。 少なくとも、二十八年間ずっとそうだった。 この家を建てた夫が亡くなったあとも、そこだけは変わらなかった。 一階の廊下から二階へ上がる、木製の直階段。途中に踊り場はなく、十三段を上がれば小さな廊下へ出る。右が夫婦の寝室、左が息子が使っていた部屋、その奥に物置がある。 見慣れすぎて、普段は段数など意識したこともない。 それなのに九日前の夜、由紀子は十四段目を踏んだ。 午前零時すぎだった。 台所の水を飲み、二階の寝室へ戻ろうとしたとき、途中で妙な違和感があった。 一、二、三。 何となく数えた。 十三。 そこで二階に着くはずだった。 ところが足の先には、もう一段あった。「……あれ?」 十四段目を上がる。 普通に二階の廊下へ出た。 眠かったのだと思った。 翌朝、改めて数えた。 十三段だった。「やっぱり寝ぼけてたのね」 そう思って終わるはずだった。 二日目の夜。 十五段。 三日目。 十六段。 それから毎晩、一段ずつ増えた。 朝になると十三段へ戻る日もあったが、六日目からは昼間も増えたままになった。 由紀子は定規まで持ち出した。 一段の高さ。 踏み板の奥行き。 一階から二階までの高さ。 どこも以前と変わらない。 それなのに数えると十八段ある。 息子へ写真を送った
第22話 眠ると、知らない町へ行く男 眠るたび、知らない町へ行く。 最初の夜、藤原慎吾は夢だと思った。 夢なのだから、それで当然だった。 目を開けると、見覚えのない商店街の真ん中に立っていた。 空は夕方だった。西の山際に太陽が沈みかけ、細い道路には長い影が伸びている。 八百屋の軒先には木箱に入った大根と白菜が並び、道路の反対側には赤い丸型ポストが立っていた。小さな電器店のガラスにはブラウン管テレビが何台も並び、店先の看板には、慎吾が子供のころですら見た記憶のない古い字体が使われている。 車は走っている。 人もいる。 ただし、何もかも古い。 昭和の町を再現した観光施設のようにも見えたが、妙に生活感があった。 洗濯物。 魚を焼く匂い。 自転車のブレーキ音。 子供を叱る母親の声。 映画のセットなら不要なものまで、すべてがそこにある。「どこだ、ここ」 慎吾はスマートフォンを探した。 ない。 財布もない。 ポケットには何も入っていない。 代わりに、自分が着ている服が違っていた。 寝る前はスウェットだった。 今は白いシャツに灰色のズボン。 靴も、いつ買ったのか分からない黒いスニーカー。「夢だな」 口にすると、少し安心した。 頬をつねった。 痛い。「夢って痛いんだっけ」 そこで目が覚めた。 ◇ 二日目。 また同じ町だった。 今度は、昨日立っていた商店街の入
第21話 葬儀に知らない女が来る 父の葬儀に来た女を、親族の誰も知らなかった。 焼香の順番を待つ列の、一番後ろに立っていた。 年齢は四十代後半から五十代くらい。黒いワンピースに真珠のネックレスという、ごく普通の喪服姿だった。 遺族席に座っていた黒田沙織が最初に気づいたのは、その女だけが遺影を見ていなかったからだ。 参列者は焼香台へ進み、遺影へ頭を下げ、それから棺のほうへ視線を向ける。 女は違った。 会場へ入ってきた瞬間から、ずっと棺だけを見ていた。 それも悲しそうにではない。 笑っていた。 口元へ、ごく薄い笑みを浮かべて。「……誰?」 隣に座っていた弟の浩二へ、沙織は声を落として尋ねた。「知らない。姉ちゃんの会社の人じゃないの」「違う」「親父の知り合いだろ」「お父さんの知り合いなら、あんたのほうが知ってるでしょう」「七十八の親父の知り合い全部把握してる息子なんかいないって」 兄妹が小声で言い合っている間にも、女の順番が来た。 焼香をする。 遺影へは、最後まで一度も目を向けなかった。 そして棺の横へ立つ。 父・黒田宗一の顔を覗き込んだ。 女の笑みが少し深くなった。 沙織は思わず立ち上がりかけた。 死者を前に笑っている。 それだけなら、泣きそうな顔がそう見えただけかもしれない。 しかし女は、棺の中の宗一へ向かって何かを囁いた。 沙織には聞こえなかった。 そのあと女は、遺族席へ歩いてきた。「ご愁傷さまでございます」
第20話 鏡の中の娘が、笑わなくなった 鏡の中の娘が笑わなくなったのは、三週間前からだった。 最初に気づいたのは母親ではない。 九歳の娘本人だった。「お母さん、私、変な顔してる?」 日曜日の朝。 洗面所で歯を磨いていた高梨美緒が、隣で化粧をしていた母の遥香にそう尋ねた。「寝起きだからじゃない?」「そうじゃなくて。鏡の私」「鏡の私?」 遥香はファンデーションを塗る手を止めた。 鏡には、母娘が並んでいる。 遥香。 美緒。 どこにも変なところはない。「普通じゃない?」「でも、私笑ってるよ」 遥香は娘を見る。 美緒は確かに笑っていた。 前歯が一本だけ少し内側へ入った、いつもの笑顔。 ところが鏡の中の美緒は、笑っていなかった。「……え?」 遥香は目を擦った。 もう一度見る。 鏡の美緒は笑っている。「ほら、笑ってるじゃない」「今はね」「見間違いよ」「昨日もだった」 遥香は軽く流した。 子供の言うことだと思った。 それから一週間。 鏡の中の美緒は、少しずつ現実の美緒と違う動きをするようになった。 髪を結ぶとき、現実の美緒が右を向いているのに鏡の美緒は正面を見ている。 顔を洗ったあと、現実の美緒がタオルで目を覆っている間だけ、鏡の美緒が母親のほうを見る。 そして笑わない。 決定的だったのは、